密教では「舎利」と「宝珠」を同一とみる法と別にみる法があります。
「舎利」=「釈迦」という形で「舎利法」を用いず「釈迦法」を用いると聞書等に記しています流もあります。
「舎利」=「釈迦」=「宝珠」
「宝珠の実体は自然道理の釈迦牟尼如来の分身である」
「御遺告」の一文ですが、上記の三種が同一ということを現しています。
昨日、ブログに書きました通り、「舎利法」には、本軌があります。
この本軌中に「舎利法は殊に末法時の衆生を利益し、現当二世の求願を満足させる法」と口伝されています。
末法時とは簡略に言えば仏法がなくなることです。
出世間にその身をおく僧侶としては、正しき仏法を世に伝えていくためには「必要な法」と考えます。
また、密教において「宝珠」は最も大切な存在です。
「御遺告」には、如意宝珠(能作性)の作り方が記されています。
この如意宝珠(能作性)を作るときに必要な物の一つに「仏舎利」があります。
このことから「舎利」「宝珠」一体の習いがみられます。
「舎利」「宝珠」
それぞれをどう拝むのか?
どう修法するのか?
別伝には、「舎利」は「舎利法」だけの本尊で一門の主であるが、「宝珠」は広く諸尊に通じ、所合の尊として如法愛染法、如法尊勝法の如く修す。
すなわち「舎利」は一門の法であり、「宝珠」は普門の法であると説いています。
どちらも大切な法とし、修法を重ねて、拝んでいき、学んでいきたいと思います。合掌
インスタ http://instagram.com/renryuin/
「舎利」=「釈迦」という形で「舎利法」を用いず「釈迦法」を用いると聞書等に記しています流もあります。
「舎利」=「釈迦」=「宝珠」
「宝珠の実体は自然道理の釈迦牟尼如来の分身である」
「御遺告」の一文ですが、上記の三種が同一ということを現しています。
昨日、ブログに書きました通り、「舎利法」には、本軌があります。
この本軌中に「舎利法は殊に末法時の衆生を利益し、現当二世の求願を満足させる法」と口伝されています。
末法時とは簡略に言えば仏法がなくなることです。
出世間にその身をおく僧侶としては、正しき仏法を世に伝えていくためには「必要な法」と考えます。
また、密教において「宝珠」は最も大切な存在です。
「御遺告」には、如意宝珠(能作性)の作り方が記されています。
この如意宝珠(能作性)を作るときに必要な物の一つに「仏舎利」があります。
このことから「舎利」「宝珠」一体の習いがみられます。
「舎利」「宝珠」
それぞれをどう拝むのか?
どう修法するのか?
別伝には、「舎利」は「舎利法」だけの本尊で一門の主であるが、「宝珠」は広く諸尊に通じ、所合の尊として如法愛染法、如法尊勝法の如く修す。
すなわち「舎利」は一門の法であり、「宝珠」は普門の法であると説いています。
どちらも大切な法とし、修法を重ねて、拝んでいき、学んでいきたいと思います。合掌
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