毎月22日は当院鎮守さまであります「荼吉尼天」さまのご供養をいたしております。
神前において祝詞、御法楽、修法壇において「荼吉尼天法」を修します。
毎月この形をとっていますが、神前にて一面器を荘厳し、神明法楽のために「心経法」を修することもあります。
天部尊は解脱していないため、「空理」を説くことを大変喜ばれます。
「解脱」には様々な説がありますが一言で極端に平たく言うのであれば「悟る」ということです。
「空理」とはこちらも極端に簡単に言いますと「 万物はすべて仮のもので,実体をもたないとする教理」。
天部尊、神といった存在に対し、よく理解し接すること、ご供養することが天部尊の修法には欠かせません。
また我々「阿闍梨」は一度登壇すれば「金剛薩埵」です。
「金剛薩埵」として「天部尊」を教令しなければいけません。
このことを忘れ、人として「天部尊」と接することが一番の障碍(密教ではしょうげと読みます)の原因です。
敢えて「金剛薩埵」として言わせていただきますと、「荼吉尼天」や「聖天」によく言われるような障碍は、欲々しい思いで接するからこそ、「護法善神」であるはずの「天部尊」の心の奥底に眠る、「解脱」ができてないからこそ持つ部分に触れてしまうから起きるのです。
そういった部分に触れることなく、「護法善神」としての働きを祈ることは何の問題もありません。
多くの「阿闍梨さま」が「金剛薩埵」として「天部尊」を教令することは国の安泰には必要不可欠です。
法を守り、正しい法を正しく伝える、そして縁の下の力持ち、これが護法善神としての役割です。合掌
神前において祝詞、御法楽、修法壇において「荼吉尼天法」を修します。
毎月この形をとっていますが、神前にて一面器を荘厳し、神明法楽のために「心経法」を修することもあります。
天部尊は解脱していないため、「空理」を説くことを大変喜ばれます。
「解脱」には様々な説がありますが一言で極端に平たく言うのであれば「悟る」ということです。
「空理」とはこちらも極端に簡単に言いますと「 万物はすべて仮のもので,実体をもたないとする教理」。
天部尊、神といった存在に対し、よく理解し接すること、ご供養することが天部尊の修法には欠かせません。
また我々「阿闍梨」は一度登壇すれば「金剛薩埵」です。
「金剛薩埵」として「天部尊」を教令しなければいけません。
このことを忘れ、人として「天部尊」と接することが一番の障碍(密教ではしょうげと読みます)の原因です。
敢えて「金剛薩埵」として言わせていただきますと、「荼吉尼天」や「聖天」によく言われるような障碍は、欲々しい思いで接するからこそ、「護法善神」であるはずの「天部尊」の心の奥底に眠る、「解脱」ができてないからこそ持つ部分に触れてしまうから起きるのです。
そういった部分に触れることなく、「護法善神」としての働きを祈ることは何の問題もありません。
多くの「阿闍梨さま」が「金剛薩埵」として「天部尊」を教令することは国の安泰には必要不可欠です。
法を守り、正しい法を正しく伝える、そして縁の下の力持ち、これが護法善神としての役割です。合掌